朝一の定例、利用部門の課長が腕を組んで言います。「うちは今のやり方で回っています。困っていません」。あなたは社内のDX推進の旗振り役。上からは「今期中に手を打て」と急かされ、ベンダーは要件定義を始めたがっています。しかし現場は「今のままで十分」と主張。議論は感情論になり、会議は何も決まらず散会。次第に「また机上の空論か」という空気が広がり、プロジェクトは遅延、事業部の信頼は落ち、予算も防衛的に削られていきます。

本記事では、「今のままで困っていない」と言われたときに、発注側リーダーが明日から使える「課題認識の可視化」のやり方を提示します。議論を事実と数字に戻し、合意形成を前に進めるための枠組みとテンプレートを紹介します。
Contents
よくある光景:「今のままで困っていない」の壁
会議室に4部門が集まり、あなたは改善の必要性を説明します。「承認が遅れ、二重入力も発生しています」。すると利用部門の係長が反論します。「繁忙期は残業で吸収できていますし、最近はミスも減っています」。別の担当者は「要件定義に時間を取られるのが一番困る」とこぼし、ベンダーは「確からしい課題がないと見積もりできません」と押し返す。結局、「現状のデータを集めて次回」という締めに落ち着きますが、次回も同じやりとりが繰り返されます。
この状態の失敗パターンは明確です。
- 課題が「印象」と「局所エピソード」で語られ、共通の土台(数字・事実)がありません。
- 「今の困りごと」だけで評価し、「何もしないことの損失」を計上していません。
- 施策の比較が「良さそう/面倒そう」の感覚評価に流れ、稟議資料に耐える形になりません。その結果、部門長は「優先順位を下げる」判断をし、時間だけが過ぎて外部要因(法改正、保守終了、人員減)で一気に詰みます。
さらに悪化すると、次のような症状が出ます。
- ベンダー側は「要件が曖昧」と判断し、見積りはバッファ上乗せ。コストが上がります。
- 社内の協力温度が下がり、ヒアリングのドタキャンやデータ未提出が続発。進行コストが膨らみます。
- 最後は「監査指摘」「障害」「キーマン退職」をきっかけに火消し導入。高く・急いで・痛い導入になります。
この状況を変えるには、「困っていないかどうか」を争うのではなく、「今のままで続けた時に失うもの(お金・時間・安全)」を共通の数字で握ることが出発点です。議論の台本を用意し、会議のゴールを「見える化の合意」に下げることが鍵です。
原理原則:『何もしないコスト』と『3枚の見える化』
原理は2つに絞ります。
- 何もしないコスト(COI: Cost of Inaction)の可視化
「今のまま続けた場合に、1年で失うお金・時間・機会の総額」を算出します。式は単純で構いません。- 手作業時間 × 月間件数 × 人件費単価 × 12
- やり直し(差し戻し)時間 × 発生件数 × 単価 × 12
- 障害・監査・法令違反などのリスク × 発生確率(期待値)
この合計を「現状維持の年間損失」と定義し、比較の土台にします。重要なのは「概算でも、部門が認める数字」で握ることです。5〜10%の誤差は気にせず、桁(百万円単位)で合意します。
- 3枚の見える化(As-Is/悪化シナリオ/最小To-Be)
スライドは3枚で十分です。- 現状(As-Is):1日の業務の流れと、時間が溜まる場所を赤で可視化
- 悪化シナリオ:外部要因(人員減、法改正、保守終了)に1つだけ数字を入れ、「いつ何が溢れるか」を描く
- 最小To-Be:最小限の改善(例:必須チェック+自動承認ルール)でどの赤が消えるかを示す
これをCOIとセットで出すことで、「今は困っていない」主張を否定せずに、「続けると失う額」と「最小の打ち手で取り戻せる額」を冷静に提示できます。
なぜ発注側に効くのか(お金・時間・社内政治の観点)
- お金:COIは稟議の“裏KPI”です。投資対効果(ROI)だけでなく、現状維持の損失を並べると回収期間が明快になり、予算査定が通りやすくなります。
- 時間:3枚に絞ることで、合意形成のサイクルが速くなります。「詳細は後で」で前に進められます。
- 社内政治:現場の「困っていない」を尊重しつつ、「会社としての損失」を経営目線で提示できます。対立を避け、数字で握ることで“痛みの押し付け合い”を回避します。
この2つさえあれば、議論は感情から事実に戻り、ベンダーにも「見積りの根拠」を渡せます。以降はテンプレをそのまま使ってください。
そのまま使えるテンプレ・話法・フォーマット
COI粗算シート(1枚)
| 項目 | 数値 | 算定式の例 | 年間影響額(円) |
|---|---|---|---|
| 手作業時間 | 5分/件 × 80件/日 × 20日/月 | 時間×件数×稼働日×単価×12 | =5/60×80×20×3,000×12 |
| 差し戻し | 20分/件 × 10% × 80件/日 | 20/60×(80×0.1)×20×3,000×12 | |
| 監査対応 | 40時間/回 × 2回/年 | 時間×回数×単価 | |
| リスク期待値 | 50万円/回 × 10%/年 | 金額×確率 | |
| 合計COI | 上記合計 |
3枚の見える化 作り方(所要60分)
1) As-Is:手書きで構いません。処理の流れに、待ち時間と二重入力箇所を赤丸で記入。
2) 悪化:外部要因を1つだけ選び、数字を入れます(例:人員-1名、件数+20%)。
3) 最小To-Be:自動チェックや承認ルールなど、最小の改善を1〜2個に絞り、赤丸がいくつ消えるかを描写。
会議の話法(そのまま使えるセリフ)

“いま困っていない”前提で大丈夫です。今日は結論ではなく、現状の見える化の合意までにします

次の3つの数字(作業時間、差し戻し時間、監査対応時間)だけ一緒に確認させてください。誤差は10%までOKです

この合意した数字をベースに、選択肢を3つ並べて部門長に決めてもらいます。決めるのは今日ではありません
依頼メール文例(データ提供依頼)
件名:現状可視化のための数字確認依頼
本文:
○○課 課長様
DX推進の△△です。結論は急ぎませんが、現状の「見える化」に必要な3点の数字をご教示ください(概算OK、誤差±10%可)。
1) 1件あたりの手作業時間(分)
2) 月間の件数(件)
3) 差し戻し件数または率(%)
可能でしたら、人件費の目安(時給)もいただけると助かります。
入力用のメモを添付しますので、5分で埋められます。期限:○/○(水)17:00。ご不明点はTeamsでお声がけください。
— △△(内線1234)
選択肢比較(稟議1枚用)
| 施策 | 初期費用 | 年間費用 | 年間便益(COI削減) | 回収期間 | 主なリスク |
|---|---|---|---|---|---|
| 0. 現状維持 | 0円 | 0円 | 0円 | — | 監査指摘、属人化悪化 |
| 1. 最小改善(自動チェック+承認ルール) | 300万円 | 120万円 | 600万円 | 約8か月 | 定着に要教育 |
| 2. 段階導入(SaaSワークフロー) | 500万円 | 180万円 | 800万円 | 約9か月 | 既存システム連携負荷 |
ヒアリング質問カード(5問だけ持っていく)
1) 繁忙日(曜日・時間帯)はいつですか?
2) その時間帯に、誰がいないと止まりますか?(名前は不要、役割で)
3) 差し戻しの一番多い理由は何ですか?
4) 監査・報告のための集計は、どこで何分かかりますか?
5) 直近1年で一番ヒヤッとした出来事は何ですか?
このセットを会議に持ち込み、「今日のゴール=数字の合意」に据えるだけで、前に進みます。
事例への当てはめ:購買申請プロセスでのbefore/after
ケース:製造業の購買申請。メール+Excel台帳で運用。利用部門は「困っていない」と主張。
- 前提データ(現場合意の概算)
- 月間件数:1,600件(80件/日×20日)
- 1件あたり手作業:5分(入力・メール送付・台帳更新)
- 差し戻し率:10%(不備・抜け漏れ)
- 差し戻し対応:20分/件(再入力・再送)
- 人件費単価:3,000円/時間
- 監査対応:年2回×40時間/回
まず、COIを1枚にまとめます。
| 項目 | 数値 | 算定式 | 年間影響額(円) |
|---|---|---|---|
| 手作業時間 | 5分×1,600件/月 | 5/60×1,600×3,000×12 | 4,800,000 |
| 差し戻し | 20分×160件/月 | 20/60×160×3,000×12 | 1,920,000 |
| 監査対応 | 40時間×2回/年 | 40×2×3,000 | 240,000 |
| リスク期待値(属人停止) | 1日停止=50万円×10%/年 | 500,000×0.1 | 50,000 |
| 合計COI | 上記合計 | 7,010,000 |
Before(数字なしの会話)
あなた:「承認が遅く、二重入力もあり非効率です」
利用部門:「今は回っています。急いで変える必要は感じません」
ベンダー:「要件が固まらず、見積り精度が出ません」
After(数字+3枚での会話)
あなた:「“困っていない”前提で結構です。今日のゴールは現状の数字の合意です。5分×1,600件=年480万円、差し戻しで年192万円、監査で24万円。合計約701万円が“今のまま”の損失、でよろしいでしょうか。誤差±10%は許容します」
利用部門:「概ねその通りです。差し戻しは季節で増減しますが、平均10%で良いです」
あなた:「ありがとうございます。次に人員が1名減った場合の悪化シナリオです。ピーク時の待ち時間が平均30分→50分に伸び、緊急発注が増えます。ここでは詳細は追いません」
あなた:「最小To-Beは“必須チェック+金額ルールで自動承認”のみ。これで差し戻しが半減、手作業は3分/件になります。粗く計算すると年間便益は約600万円です。初期300万円、運用120万円で、回収は8か月です」
部門長:「ならば最小改善でPoCをやってみましょう。半年で効果が出なければ撤退の条件も付けましょう」
このやりとりのポイントは3つです。
– 「困っていない」を否定しない。ゴールを「数字の合意」に下げる。
– COIで「現状維持の損失」を金額で置き、投資の比較対象を明確にする。
– 3枚の見える化で、最小の打ち手に絞り、政治的な抵抗を下げる。
この後は、選択肢比較表をそのまま稟議に差し込み、ベンダーには「効果の測定指標(差し戻し率、1件当たり時間)」をSLA風に渡せば、見積りも安定します。
まとめ
- 「今のままで困っていない」は議論の終わりではなく、可視化の始まりです。合意すべきは“困っているか”ではなく“失っている額”です。
- 何もしないコスト(COI)と、As-Is/悪化/最小To-Beの3枚で、感情論を数字の土台に戻せます。
- 会議のゴールを「見える化の合意」に設定し、誤差±10%の概算で握ると前に進みます。
- 稟議は「現状維持の損失 vs 最小改善の便益」の比較を1枚で示せば通りやすくなります。
明日ひとつだけやるなら、利用部門に「5分で埋められるCOI粗算シート(手作業時間・件数・差し戻し率)」の記入を依頼し、次回会議のゴールを「数字の合意」に設定してください。
- 経済産業省「デジタルガバナンス・コード2.0」: https://www.meti.go.jp/policy/it_policy/dgc/index.html
- IPA「DX白書」: https://www.ipa.go.jp/ikc/publish/dx/index.html
- デジタル庁「デジタル社会の実現に向けた重点計画」: https://www.digital.go.jp/policies/priority-policy-program
- IPA「IT投資評価ガイドライン」: https://www.ipa.go.jp/security/economics/it-investment/index.html


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